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地蔵のあらまし
仏と仏像 地蔵と観音 町内の地蔵の分布

仏と仏像

 人々の心のよすがとしての仏、この仏の心や功徳を人間の姿にしたのが仏像である。仏像は仏師の手により、また石工たちによって作られ、僧侶や多くの信者によって守られてきた。多くの民衆はときには戦乱のあおりを受け、天災にみまわれ、飢謹にさらされながら、苦しみの中にも仏にすがり、手を合わせることで立ち直り生きてきた。

 仏教の神髄は「慈悲」である。「慈」とはいつくしみの心、「悲」はあわれみの心ということで、慈は厳しい父の愛情とすれば、悲はやさしい母の愛情ということになろうo

 仏の世界にはいろいろな仏がいるが、阿弥陀如来、薬師如来という如来のグループ、観音菩薩、地蔵菩薩の菩薩のグループ、不動明王、愛染明王などの明王のグループ、仁王、四天王、十二神などの天部のグループの四つに分類される。

 如来像は慈悲の「慈」を表現している仏で螺髪をしており、菩薩像は如来の変身で、悩み苦しんでいる衆生を救済してくれる仏で慈悲の「悲」をあらわすもので頭に天冠をかむっている。明王像は大日如来の化身で、武勇に優れていた釈尊の王子の姿といわれ、右手に宝剣を持ち、左手に縄を持って、火焔をせおっている。また、天部像は仏の守護神で如来、菩薩、明王らの邪魔をする仏敵に対して、甲、鎧を身に付け武器を持って戦える姿で警護している。


地蔵と観音

 釈迦がこの世を去られるときに、私の代わりになって迷い苦しんでいる衆生の面倒を見てやってほしいと菩薩に頼んでいかれた。この菩薩が地蔵であり観音である。地蔵は出家者の形で頭を丸坊主になられているのに対して、観音は美しく宝冠や飾りを付けた在家の人として作られている。

 人はこの世に生まれれば必ず死んでいくのであるが、死後はまた別の生き物として生まれ変わるという。この生まれ変わる世界が天上、人界、修羅、畜生、餓鬼、地獄と分かれ、これを六道といっているが、これらの道に立って地蔵や観音が互いに助け合って、みんなを極楽へつれていくのに―生懸命働いておられるという。

地 獄 道

聖 観 音

檀陀地蔵

餓 鬼 道

千手観音

宝珠地蔵

畜 生 道

馬頭観音

宝印地蔵

修 羅 道

十―画観音

持地地蔵

人 間 道

准胝観音

除蓋障地蔵

天 上 道

如意輸観音

日光地蔵

 これを六観音、六地蔵といっている。

 地獄道での檀陀地蔵の檀陀というのは、棒とか杖ということで、上の方に金輸のついている杖、錫杖を持っておられる姿がよくみられる。右手に錫杖を持ち左手に宝珠を持っているのが多い。錫杖でジャン、ジャンと杖をつきながら地獄を廻って亡者の苦しみをとってやろうとしていられるのだろう。多くの地蔵は左手に宝珠を持ちながらも、右手に経箱(持地)、経巻(日光)、孫の手のような如意(宝印)を持っており、手を広げて下げている(宝珠)、手を広げて上げている(除蓋障)などの姿をしている。またよく見られるものに合掌している地蔵も多い。これは、これらのなにもかも―体にした地蔵で、すべての功徳に通じるものとされ、宝珠を持っていないようであっても、実は宝珠を両手で包み込んでいるという気持ちで合掌しているのだといわれている。

 地蔵信仰は中国では唐代、日本では平安中期の末法思想の流行によって、観音信仰と共に民間に普及した。六道の衆生を救う菩薩としての檀陀地蔵が、無数の地蔵に変身して衆生を救うということから、千体地蔵、六道の衆生を救う六道地蔵などいろいろな名を付け、安産や子育ての子宝地蔵、子授け地蔵、農事に関する田植え地蔵、病気の祈願に関するイボとり地蔵、虫歯地蔵などと名付けられた庶民の願望をあらわした地蔵も多い。

 次に観音信仰であるが、古くから信仰されてきた菩薩である。観音は三十三身になられて衆生を救うといわれ、聖観音が変じて十―面、千手、馬頭、如意輸……となっておられる。

 インドにおこった仏教が中国、朝鮮半島を経て日本へ渡ってきたのが六世紀の頃であった。奈良時代では庶民の信仰というよりは、鎮護国家のために盛んに観音像を造らせて祈願をさせたもので、貴族信仰が中心であり、国家体制を整えるための心のよすがとして普及に努めた時代であった。平安時代に入って浄土信仰が盛んになり、観音信仰も末世的な色彩が強くなって六観音信仰が発達し、平安後期の十二世紀後半に観音霊場ができ、それらを結んで修験者による巡礼が始まった。観音さんの三十三身にちなんで西国三十三か所巡りのように、全国各地に三十三か所の巡礼が民衆の間にも行なわれるようになったのは十五、六世紀ごろからである。

 次に石仏の造像についてであるが、―般に南北朝以後多く作られるようになった。それは石材の入手しやすくなったこととあわせ、移動に便利というのでせいぜい―メートルぐらいまでの立体彫のものが作られ、江戸時代に入るとより小さな石仏が盛んに作られて、道端や辻などに、小さなお堂を建てて祀られた。大衆的な信仰として観音や、地蔵が親しまれ、ことに村境や山の峠などに「境の神」として悪魔や災厄が村へ侵入してくるのを防ぐ神様として祀られ道祖神の役を果たしてきた。


町内の地蔵の分布

 町内の地蔵分布を概観すると、良川では、旧長曽川堤に沿う沖地区の道路沿いと、地頭から北地区を結ぶ旧道沿いに多い。良川〜徳前を結ぶ道路は、古来東往来と西往来を結ぶ地溝帯横断の唯―の道であった。長曽川は濁川ともいわれ、石動山系蟻が原、原山の山々を水源としている。ここは県下でも地すべり地帯として知られているところで、雨ごとに名のとおり濁り川となった。天上川であるため大雨ごとに氾濫し、むかしは流路も変えることも多かった暴れ川で扇状地を形成してきた。これら扇状地上の集落は常に危険にさらされ、長曽川の氾濫がこれら集落の歴史を左右してきたともいわれるくらいであった。沖地区の場合、当然この良川〜徳前の道も氾濫によって寸断され危険の多かったところであった。今でも通称ドスが原といっているだけに気味の悪い往来でもあったことから道祖神としての地蔵が多いのもうなずける。また地頭から北にかけての地区は不動さんが多い。この地区には、かって中世のころには良川十六坊もの寺坊のあったところなので、坊の本尊として、あるいは境内の守り仏としての役を果たしてきたのが祀られているのではなかろうか。

 一青、黒氏地区には真言寺坊がなかったこともあってか地蔵が少ない。この地区にあるのは、石動山へ働きに行っていて運んできたとか、夢のお告げで石動山から背負ってきたというように、石動山寺坊が瓦解したあと運び込んだもので、どれもみな家の守り仏として屋敷内にお堂を立てて祀っているのが特徴といえる。

 末坂にはかって玄海坊があったところだから地蔵がもう少しあってもと思われるがわりに少ない。―つは―青の火葬場跡へきている。これはもと玄海坊の別荘の登り口にあったものだし、逢坂の峰にある不動さんも玄海坊にかかわっているのかもしれないo

 羽坂の火の地蔵・水地蔵は手間神社とのかかわりで神仏混こう期の信仰を想起させてくれる。

 春木には安楽寺、大槻には常楽寺があって中世寺坊として栄えたところなので地蔵が多く点在する。

 瀬戸伊助谷にあるのは十却坊からのものであるが、峨山往来とのつながりで意義がある。

 このように鳥屋地内の地蔵の分布を見ると、中世にあった真言寺坊跡地域に多いのと、石動山下の集落では石動山寺坊の瓦解によって運んできたというのが多い。そして、かつて真言寺坊のあった地区では道沿いに立っているのに対して、石動山から持ってきたものは個人の家の守り仏として屋敷内に祀っているように二つの形態をみることができる。また末坂の逢坂の地蔵、春木の三つ池地蔵、新庄の弘法地蔵のように村の恩人として末長く感謝の念を捧げ、弔うとともに村を見守ってもらおうとの願いのこめられているものもあることを見のがせない。

 次に各地区集落にある地蔵を紹介しよう。ただし近年交通事故等で亡くなられたため、安全祈願としてたてられた新しい地蔵も各所にみられるが、これについては割愛させていただいたのでお許し願いたい。


(文章は平成4年刊行の「とりや地蔵めぐり」より)