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曳山♪♪♪ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鳥屋地内の曳山は良川地頭、仲村、新町、沖、黒氏、黒氏深沢、―青、末坂、羽坂・今羽坂、新庄、大槻、春木、瀬戸、花見月地凶にあって、計14基である。 形はほぼ同じで方形2階造りである。階上には1本松を立て、進行方向に面して歌舞伎人形を飾り、拍子木係や障害係が位置し、階下は幔幕を張り回し、三味線、太鼓、笛、鉦などをかなでる芸人が乗り込む。このように方形で歌舞伎人形を飾る曳山は県内では他に見られない。 また他の地方での曳山は年申行事として行われているのに対し、この地域の曳山は神社の新改築、御開帳等の慶事、公的慶祝の場合にしか曳き出さないので、数年ないし数十年に一度しかない祭事である。 |
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曳山の起源についてはっきりした記録がないが、江戸初期といわれている。曳山に詳しい能登部上村の古川喜久治は「今から400年余り前のこと、鹿島半郡(ごおり)を治める守護職に、京都から公家がきて治めていたが、どうも村人同志のつながりも、また隣村とも仲が良くない。これをよくさせるには祭りしかない。そのために特定な祭りの形として曳山が考案され、―つの政策として考え出されたものである。京都の抵園祭りを導入したのか、雌子も祇園囃子とそっくりである」と語っている。 この裏付けとして考えられることは、能登の守護職であった畠山は満慶(1408)以来170年間、七尾を根城にして君臨した。畠山氏は京の上方文化をこの地力に伝播したことで知られている。3代目の義統が守護となってまもなく応二の乱(1467)が起こり11年間も続いた戦いで京都は焼け野原となり、都に住む公家たちも戦乱を逃れるため、地方の守護を頼って逃げのびた人が多かった。 事実京都から逃げのびてきた人の中には、義統を頼ってやってきた文化人に連歌で行名な宗祇(1478)が訪れてきており、次の義総は歌人冷泉為和(1536)を招いて歌会を催し、茶の湯会を開くなど代々中央の文化を受入れ畠山文化を築いた。また長谷川等伯もこの薫陶を受けて育った―人であった。畠山文化は京文化の延長とみるべきであり、この地方の曳山も京文化の流れの上にあるといえるのでなかろうか。 また、この曳山は鹿島半郡の集落にしかないといっつているが、鹿島半郡というのは二宮川を境にしてその以西59ヵ村、2万9000石余を畠山の家臣長連龍が、武功によって織田信長から与えられた領地である。天正8年(1580)であった。 後に長連龍は利家の臣列に加わり、加賀藩の八大家老の―人となるが、鹿島半郡だけは長家領として存在し、利家とて手を入れることができなかった。浦野事件を機に寛文11年(1671)に半郡が加賀藩に接収されるが、この90年間は加賀藩領内で長家領だけは厳として存在した。この曳山が鹿島半郡だけにあるということは長家支配と深くかかわるものといわねばならない。曳山の起こりを江戸初期といっているのはこのことからであるが、曳山は畠山文化から考えると室町期の京文化の流れをくんでいる 文化遺産であるともいえるが、しかし、文化・文政の頃までの約200年間、何―つ古文書その他曳山資料となる物件が見当らないので曳山の起こりをここに断定するのも難しい。 家中進(羽坂)は文化・文政の頃からこの地域に曳山ができたのでないかとの意見をもっている。この文化・文政期は都においては元禄以来の流通文化を土台として町民文化を発展させたことは、次の曳山の変遷の項にもふれるが、口能登の農村地域にも歌舞伎、にわか踊り、村芝居等の見世物が盛んにおこなわれた。それはこの地域に江州商人7人衆を通して、苧麻、麻布の生産農家の副業として普及し、この商品流通によって農村事情を大きく転換させた。農家に経済的農かさができ、奢侈の風習が広がり町人文化に魅了させられた。 つまり、家中進は江洲商人がこの地方に曳山を導入したのではないかというのである。現在滋賀県甲賀郡水口町の水口神社祭礼の曳山が、鹿西地域の曳山とよく似た形をしているのを根拠としている。最上部に歌舞伎人形と松の木をすえ、上段の回りに欄干がついており、中段は御簾と幔幕を巡らしている。また、花笠も同じ造作で作られているなど、類似点が多い。方形2階造りの曳山の形が水口町と同―であることと、江州商人と苧麻生産と結びつけた考え方である。 いずれにしても、曳山に歌舞伎人形を飾り、華やかに曳かれるようになったのは文化・文政の頃からだということは確かである。 また、江戸後期から明治・大正期にかけて、この地方から氷見へ木挽き職人としてよく出稼ぎにでていたが、この人たちが氷見の曳山をこの地に導入したのではないかという人もあるが、これも根拠が薄く定かではない。―応ここでは古川喜久治の説をとることにしておく。 |
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江戸時代の初期に作られた曳山は小型で素朴なものであった。形としては祭事の三方の形を原形にして、それに車をつけたもので、村民の気持ちを三方に乗せ、村民あげてこれを曳いて祝意を表わすという、村三方の意味が込められている。 つぎに歌舞伎人形についてであるが、元禄期に竹本義太夫等によって浄瑠璃が発達し、江戸後期の文化・文政の頃に町民文化としての歌舞伎が発達し、農村にも浸透して村芝居が流行した。曳山に飾りつけられる歌舞伎人形はこの影響を受けたもので、名場面をとらえ人形化して飾るようになった。曳山の人形は江戸後期からで背丈も低く4尺程度で、村民の手で作られ、いまのような華美なものでなかった。 曳山の欄干に彫刻が施され、漆を塗り、華美な装飾、そして目隠しなどの豪華な彫り物、歌舞伎人形の大型化。このようにだんだん華美になってきたのは、明治中期以降からである。 現在曳いてる曳山で古いものはl00年以上たっているが、本体と欄間の彫り物等とが同時に整えられたというのがほとんどなく、次々と付加していったものである。 囃子にもあるように「○○のヤマほっといて、オッチャヤマひいてくれ」のオラが在所意識、農村共同株低考えが"よそのムラに負けられない"となって曳山に豪華さをあおった。その当時名の通った宮大工を棟梁とし、七尾や井波の彫刻師に彫り物を作らせるなど、曳山は優れた木彫工芸品となって、江戸期のものとは比較にならないほど面日を―新した。 |
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4.囃子 ♪♪♪ ☆小さい時からふた親に 別れて苦労をするわいな 身は高山石灯籠 今宵はそなたにともされて 明日の晩はどなたに灯されよか (以下囃子) |
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イサイサ拳唄 ♪♪♪ イサイサ拳は連続3回勝って勝負が決まる。ただし、同じ拳を2回続けてもよいが、3回日は変えて打つこと。3回続けて同じ拳を打つのをヤボ拳という。 へ今度打つのはイサイサ拳だわいな ・1回戦を終えた者が続けて2回戦に挑戦する場合 (1回戦の負けた者) (1回戦の勝った者) ・勝負がなかなかつかない場合 (両者) あまり長いのは○○に障るわいな ・勝者が次の対戦者を迎えるとき (次の呼び出し) (勝者の呼び出し) 曳 山 唄 ※オッペケ大山 高い山からノーエー 谷底見れば (替え歌) でっかまんこにノーエー 毛なら三筋 |
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