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板碑
むすび

鳥屋町教育長 横山 円了

 小川からメダカや鮒も姿を消し、どじょうすくいもなくなって久しい。原っぱからバッタや蝿も姿を消していった。道路網も整備され、すみれ・たんぽぽ・れんげ草なんて趣きのある路傍もなく、腰降ろし花摘む場さえなくなった。

 と同時に、地域の人たちに親しまれ、地域の生活の申に生きていた文化遺産の数々も、生活信仰も忘れ去られていく時代の推移に、何となく心寂しさを覚える。

 町文化財保護審議会では、こうした事に早くから意を留められ、「とりや地蔵めぐり」「とりやの昔話」「鳥屋町民具図録」など、一連の調査誌を発刊し、地域文化遺産の調査・保存、更には伝承に努めて来られた。

 「鳥屋町の板碑」発刊もその一環となるものであろう。ふるさと創修館にたくさん展示されているとはいえ、一般には「地蔵さん」のように馴染も深くなく、余り関心の持たれるものでもない。それだけに、類型・分布・変遷などの解説を加えての編集は、一つ一つに込められた当時の人々の生活信仰をうかがい知る上でも、意義深い企画であった上、その労苦に感謝申し上げたい。

平成九年四月


むすび

今日においてでさえ墓碑を新しく造立するということになると相当な経費をともなうものである。中世社会において先祖の菩提を弔い、また現世・末世の平安無事を祈願した板碑の建立は一般庶民の資力ではできるものではなかった。鎌倉期における御家人の全国配置が、板碑を全国に波及させた主因の一つとされていることからしても、武士をはじめ寺坊や在地の領主層、土豪といわれた支配者、富裕階級の者が建立したものであったが、室町期に入り庶民の経済活動も盛んになって農民層にも板碑が造立されるようになった。

 その板碑も先祖の菩提を弔う供養から現世利益への現実的な逆修供養への方向に変わっていった。

 中世300年の間に造立されたとみる板碑が町内で61基を数えたが、まだ土中に埋もれていたり、他に転用されて見つけることができないものもあるかもしれない。

 良川から春本、大槻にかけての自然石板碑、瀬戸、花見月に集中する五輪塔陽刻板碑や方錐型板碑等、板碑の分布に地域性をもっており波及に遅速のあったことをも示している。

 また紀年銘をもった板碑はどこも少ないのであるが、町内では一基も見付けることができなかったので年代設定にあたっては推定しかできなく確かさを欠くうらみがあるのでお許しを願いたい。

 本調査にあたり多くの方々の御理解と御協方を得たことをここに改めて御礼を申しのべるとともに、本集録の刊行にあたり三浦純矢先生(県埋蔵文化財保存協会、調査課長)には格別の御指導と助言をいただきました。ここに深く感謝の意を表します。

町文化財保護審議会 高木 清


(文章は平成9年刊行の「鳥屋町の板碑」より)