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板碑の概要
はしがき 板碑の概要  1.類型 2.分布 3.変遷 4.終焉

はしがき

 板碑は中世社会に造立された仏教信仰の石造遺物の一つである。十三世紀の鎌倉時代に武蔵地方を中心に始まったこの板碑が、短期間に北海道から沖縄まで全国にまたがって盛んにつくられたが、江戸時代17世紀初頭には消滅してしまうという不思議さをもっているのである。

 造立の目的は、当初の鎌倉期では在地領主層などが追善供養のためにつくったのであるが、室町時代になると、逆修供養が多くなり農民層にまで広まったのである。町内の板碑調査の結果をみても殆どが室町中後期のものであった。

 県内では故桜井甚一氏(志賀町出身)は板碑研究で知られた第一人者であった。「能登と加賀の板碑文化」(昭和33年刊)をはじめ、「石川県銘文集成」(昭和46年刊)を著し、また各市町村史の編さんに関与して石仏関係の調査を行い、板碑についての論考をよく発表していた。

 鳥屋町の板碑については、「鳥屋町史」(昭和30年刊)に故高掘勝喜氏が「鳥屋町における歴史考古的遺物について」と題して執筆し、二、三の板碑については付録(一)にのせている程度で全域的な調査は行っていない。

 桜井氏にしても前記著書には鳥屋町の板碑についてはふれていない。いわば鳥屋町での板碑の全容がつかまれないままになっていたのである。そこで数年前から山田守住職の山本盛賢氏と干場道治主事(町文化財事務担当)、高木の三人で各地区を回っては調査を行ってきた。しかしその矢先、山本氏の奥能登への転居、干場主事の他課への異動等もあって板碑調査も休止状態になっていたが、九年度、町文化財保護審議会として再度の調査を行い、また県埋蔵文化財保存協会調査課長、三浦純矢先生の指導を得てここに"鳥屋町の板碑"としてまとめる運びになった。


板碑の概要

1.類型

 仏教考古学の石田博士が「日本仏塔の研究」で、板碑の概念として、石材は秩父産の緑泥片岩であること、形態では、頭部を等辺三角形にして、頭部と身部(碑面)の間に二条の切り込み線が入っていること、碑面の上方に種子か仏像を彫り、その下に紀年号や願文などを刻したものと規定して、これが典型板碑であるとし、他の石材を使って典型板碑を真似て作ったような板碑を類型板碑、自然石や割石を使って板碑としているものを自然石板碑、この三つに分けている。

 この論からすれば緑泥片岩を産しない殆どの地方は類型板碑か自然石板碑ということになるが、この分け方が一般的に通用しているようである。

 

2.分布

 鎌倉前期から関東で盛んに緑泥片岩を使って供養塔として作られた板碑が、形や石材を変えながらも全国へ普及した理由には、鎌倉幕府の御家人が各地に赴任し、その土地に産出する石を使って板碑を造立したからだと言われている。

 能登へ波及し定着したのが鎌倉後期で山や川の自然石を使って板碑としたものであった。その分布は、桜井甚一氏著の"能登と加賀の板碑文化"によると「鎌倉時代後期に能登半島へ伝播した初期の板碑文化は、口能登から奥能登内浦沿いに定着し、南北朝時代に盛期をむかえた,。その分布を見ると、最も濃密な地域は口能登の石動山山麓、ついで旧福野潟周辺、さらに奥能登では大峯出山麓の三地域に分布圏を形成する。」と述べている。

 鳥屋町の板碑は良川、末坂、羽坂、春木、大槻の眉文山麓の村々に多いのであるが、ここは山田寺をはじめ、かつて真言寺坊が中世の頃あった地区であり、瀬戸、花見月には十劫坊や大宮坊などやはり真言寺坊があった所と伝えられている。大きく眉丈山系の東側と西側の両地区に分布域をもっていたのである。

 

3.変遷

 (1) 川鎌倉後期から南北朝時代13、4世紀のこの期は、能登では板碑の前半期にあたり、殆どが自然石や割石を使い、これに信仰標識として仏や菩薩を種子であらわしている。なかでも金剛界大日如来の種子「バン」が大半を占め、装飾としては円相を施しているのが多い。

 大日如来が多いというのは、大日は密教の根本本尊で,密教万能であった藤原仏教の流れを継いだ鎌倉期の当初は当然であったであろう。これも南北朝に入り室町期へ向かうにつれて、末坂玄海山の金塚、西永寺鐘楼に組み込まれている阿弥陀如来の種子「キリーク」の自然石板碑は浄土教の普及を示し、大槻の常楽池付近から出土した弥陀三尊板碑と大日板碑が同所から出ていることは、密教と浄土教が違和感もなく信仰されていたということの現れであろう。

 藤原後期の末法思想の台頭が、他方を本願とする浄土教に救を求めようとする信仰の普及につながり、都から遠く離れた能登でも、南北朝から室町期にかけて阿弥陀如来信仰が盛んになり板碑造立が行われた。

 (2) 室町時代

 15世紀前半の頃は、前の時代のように自然石を使ってはいるが、碑面に五輪塔や宝きょう印塔を陽刻したものが主流となった。

 それに方錐型板碑の出現したのもこの期である。

 16世紀後半にはもう素朴な自然石板碑が姿を消して、板碑も小型化し、形を整えた類型板碑が作られ、装飾にも円相だけでなく、蓮座を彫り意匠化させて、入念な板碑が作られるようになった。類型板碑は当時の石材彫技の姿をのぞかせているようでもある。円相と蓮座を併用しているものが多い。

 なお16世紀末期に波及したものに畿内系の板碑がある。信仰標識の五輪塔や如来像を平面的に薄肉彫りか線刺したものが作られた。

 また、板碑の終焉期に現れたものに庚申塔がある。庚申待供養が結衆と、講のかたちで行われた。大槻の庚申名号板碑について後述するが、これは一つの教派というよりは、民間信仰的な集団でつくられ、健康長寿、五穀豊饒の祈願をした一種の現生利益の逆修供養をした結衆の板碑である。この結衆は農民の寄合的な機能にもなり、農民相互を結びつける村講としての役割も果たしたと思われる。

 


終焉

 鎌倉から室町時代にかけての中世期に、関東をはじめ全国的に造立された板碑が、中世が終わると火が消えたように造立されなくなってしまった。これはどうしてであろうか。全く不思議な現象なのである。これについて、千々和実氏(東京学芸大名誉教授)は浄土真宗の普及進展が主因とあげている。真宗は当時一向一挨を起こすほどの大勢力、百姓の持ちたる国をつくった真宗勢力であったが板碑造立には力を入れなかった。また臨済や曹洞の禅宗では位牌を盛んにつくらせたことで位牌の流行が浄土教にも及んだ。するとこれまで供養塔であった石製板碑が安価な木製塔婆にすり変えられるようになったし、木製塔婆であれば後の処理も容易であることもあって、真宗の板碑非造立と位牌の出現が板碑消滅の最大の理由としている。

 またの理由に、戦国時代の領主や大名が築城に、領内の名工を総動員したためとの論を立てている人もいる。この15・6世紀は領主や大名が根拠地を山城から平城へ大きく変えた時期である。平城を造るためには石材も各地から大量に集めなければならないし、それだけに多人数の石工を必要とした。築城が板碑消滅終焉に拍車をかけたとみている人もいる。いずれにしても板碑は中世石造遺物の幻のようなものである。


(文章は平成9年刊行の「鳥屋町の板碑」より)