432.縄ない初めの行事

新庄    水野 外二

  昭和二十年前後ころまでであったか、農家の副業に藁加工品作りが盛んに行われた。鰊包装用筵、かます筵、敷筵をはじめ自家用の草履から草鞋まで等々。特に冬場になると、朝早くから晩遅くまで、藁を打つ音、縦筵を織る音が各家の納屋から聞こえてきた。
  子供たちも学校から帰ると、縦縄を二、三把ぬうことが日課にされていた。
  そのころまで、正月に子供たちが集まつて「ない初め」と言う行事があつた。これは子供たちの正月遊びと縄ないの事始めをかねた行事で、新庄でも岡下出地域を中心に行われた。
  正月二日に、小学校五、六年生ぐらいまでの子供たちが、親に打ってもらつた藁を二、三把と、正月餅三切れか四切れを持つて宿元へ集まり、八人から十人になったろうか。
  宿元は、隣保班単位で年ごとに交代し、ない初め行事の世話をする。
  子供たちが集まったころから、持ち寄つた藁で縄をぬい、タ方までには終わるようにした。
  晩には、宿元のお婆さん、お母さんに餅を焼いてもらい、砂糖や醤油をつけて食べたり、雑煮のごちそうになった。そして、夜が更けるまで炬燵を囲み、いろは歌留多や双六の正月遊びや、その家の年寄りから昔話を聞いて楽しみながら、遊びつかれた者から、そのまま毛布か煎餅布団を掛けてもらいごろ寝をした。
  翌朝宿の親父様が、寝ている子供たちの顔に墨で悪戯を書くことが常習になっており、やがて子供たちが目を醒まし、お互いの顔を見て「わぁ」と笑い合い面白がつた。
  顔に墨をつけたのは、早く顔を洗えということで、宿元の温かい朝飯とおつゆをいただいて、行事は終わった。
  素朴な行事ではあったが、縄ぬいに親しみ、正月節目の事始めや遊び、近所の家での温かい持て成しに、子供心にも地域の連帯を感じ情操を深めたのかなと、今は老人たちの微笑ましい思い出になつている。

(百海 記)