415.八幡神社の雨乞い

新庄  加賀  政之助・亀井  勇三・百海  祐二・笹田  勇・水野 外二

  新庄村は肥沃な稲田に囲まれながら、山や森のない平坦地のため、稲作の水管理は農耕民の命の水であり、村を治める要であった。
  夏場、炎天が続き、五ヵ所の溜池も底をつくと、二宮川上流の徳前、二宮地区へ分水方願を出したことがあるが、大方は天からの降雨がない限り、どこの在所より旱魃の被害が大きかったのか、度々八幡様で雨乞い神事が行われた。
  雨乞い神事も、雨が降るか降らぬか空模様によって、費用がかさみ、十人の親父様も賛否両論に別れ、村を二分する喧嘩騒動を起したこともあった。ごく最近では、大正十三年と昭和三年の二度、雨乞い神事が行われた。
  神事は、信州戸隠神社から霊水を迎えることから始まつた。戸隠までどうして行ったか定かでないが、その時に使われた青竹筒が現存しているとのこと。
  宮司は白装束で奥の院に座し、雨が降るまで、断食、不眠不休で御祈祷を続けられた。大正十三年の折りには、白髪の先々代の宮司、昭和三年には先代の宮司が神事を司った。
  宮司も数日にわたる祈願の行で、身が衰弱し神懸りになり、雨が降らぬあるとき、水筆でお告げを書かれ、しばらくすると白紙の上に「八幡様に願懸けをしている人がいて、それが邪魔になり神に願いが通じない」旨の告文が現われたそうである。
  拝殿前には、高さ十メートル余りの櫓が杉の生木に組まれ、ちょうひょうとした櫓の上では、村の若衆が昼夜を問わず太鼓を打ち続け、他所からも区長が御神酒をささげ、太鼓打ちの若衆を伴って応援にかけつけた。
  勇壮なもろぱい太鼓の音は、杉の木立から天に轟き暗雲を呼び、近郷近在へ鳴り響いたと言い伝えられている。
  最後の雨乞いでは、願いが通じ過ぎ大雨になったそうである。歓喜の太鼓を打ちながら在所を練り歩き、一p隠神社の霊水を最も要な溜池「上河原池」へ注ぎ納め、神事は打ち上げとなった。
  例年十一月二十日には庭じまいの祭りが行われ、村人は八幡様に収穫の感謝をして、その年の農耕を終わる。雨乞い神事の行われた年、暮れの万雑割は大変であったろうが、その記録は残っていない。
  大正十三年の区長は百海弥助、昭和三年の区長は水野密次郎、戸隠へ行った人は稲垣留吉であつた。(五人の話を百海が整理)

(類話)

一青    息畑 茂三

「類話」

雨乞

瀬戸    池島  つや

  一週間雨乞いして、その間中在所皆して獅子回しをして、藁に大蛇こっしゃいて、そして池をこっしゃいて、そこへ大蛇を入れて祭りをするぎ。そして一週間目の日に降ったとも、降ったとも、細引き下げるような雨で家へ戻ろうにも山の天辺に雨乞いしとるぎやもんで、戻られんぎゃいね。