385.俵藤太

良川     千場  つき

  瀬田の唐橋のそばに近江富士ちゅう山があるぎい。その山を大百足が八巻しとったぎい。八巻ちゅうがはその山を八分目まで巻いたちゅうことのがで、それが百足が大きいもんで石山までほうてきて悪いことしたりするぎい。
  瀬田ちゅうたら、瀬田のフンドシ町や汚のうて長い所やったわいね。そういう辺鄙な百姓の所で、その向に近江富士がある。その近江富士のそのでかい百足が邪魔して、どんだけ百姓の者がやっと生活しとるがでも、その大百足ぁ一辺おりてきたらガサーッとおりるだけでだちゃかんがになる。
  「誰かその百足を弓で射つもんなおらんか」ちゅうがで、百足ぁおりてきて昼寝をするときにゃ、瀬田の唐橋に尾んぼも頭も長いもんで通れんがになるぎい。
「誰か射つもんなおらんか、射つもんなおらんか、弓の名人なおらんか」と彦根の井伊の殿様が家来をみんな調べたら、俵藤太が弓の名人や。そこで一撃で倒してもろうがに藤太に頼んだら、藤太は、夢のお告げに、
「ただ弓を射っても駄目のがで唾きをいっぱいつけて矢を射ると落ちる」ていうたもんで、でかいこと唾きを寄せて射ったもんで、今でも百足が噛んだら「唾きをつけ」ていうわね。
  藤太は唾きをつけて、デデーンと射ったら大百足ぁ、キリキリともんで死んだもんで、みんなが助かって平和に暮らすようになったぎいと。

(付記)

俵藤太

  藤原秀郷のこと。藤原鎌足の子孫。近江の田原とも下野田原の出身ともいわれる。藤原一門中屈指の武人。
  将門討伐の伝承と琵琶湖のムヵデ退治の伝承が名高い。前者は平将門の「承平の乱」を平定した史実にもとづくものであり、後者は琵琶湖畔の瀬田の唐橋を渡る際に、橋の下に住む竜神の話をいれて、比良の山から襲ってくるムカデを強弓で退治した。ムカデ退治の礼として吊鏡や刀、鎗、米の儀など尽きぬほど贈られたことから「俵藤太」の名がついたという。