382.二十四孝の竹の子とり

良川    千場   つき

  戦国武将が天下統一を目指し覇を争っていたころ。
  武田信玄の城下に、二十四人の孝行者がいて、その中の一人の話やわいね。
  貧乏やけど何ともいえん親孝行の息子が、病弱で寝込んでおる父親に、孝を尽くしておるげぇけれど、貧しいもんで十分なことあできなんだけぇと。
  実の父親ぁ先に死んで、血筋の違う父親やけど、言いつけあ何でも叱えておったげぇと。そうしたら寒の内のある日、その父親ぁ竹の子を食べたいて言い出したげぇ。
  どこどうして竹の子の味を知っておったかね。冬の寒い時期に竹の子ぁ出ておらんし、孝行息子ぁ何と困ってね。しかもそのころ、竹の子ぁ食べられんもんやて言われておったげぇ。
  ある者が、竹の子ぁ食べられるて言うたら、その村の役人な村人を集め、こんな木を食われるはずか、子を食われるくらいなら親ぁよけいまいはずや、食べてみまいかで、親竹を輪切りにして炊いたけれど、こわて食われなんだと。ましてその子ぁ食われんやろうという話があるくらいや。
  その父親ぁ、寒の内にもかかわらず、よほど竹の子を食べたかったがか、そう言うもんで、孝行息子ぁ何とかその願いを叶えてやりたいと、一心に神様を拝んでいたら、竹薮に竹の子がでてきて食べさしてやることができたそうや。
  日本で竹の子を食べたがこれが初めてで、それから竹の子を食べることが全国へ広まっていったという話や。
  そのことが武田信玄の耳に入り、孝行息子ぁ家来になり、見込まれて八重垣姫と夫婦になったげぇと。
  そうやさかえ、竹の子の元祖ぁ、二十四孝の八重垣姫の旦那やて言われておる。
  それが二十四孝の竹の子掘りで、今が日、歌舞伎の芝居になったり、曳山の出し物になっておるげぇ。