371.  春木の三郎右ヱ門

春木  小谷内 勝二・北原 末吉

 神の山は三郎吉ヱ門の守り本尊やった。三郎吉ヱ門ちゅうもんな、春木八百石の田んぼを守るために水がいるやろお、そやもんで新池の後の山ぁ春木の山やったがを、末坂池(新池)と取り替えたぎや。そしてその池に山の反対側から水を引くがにして、三郎吉ヱ門ちゅうもんが、前田様から補助をもろうがに、でかい金やいるもんで使わん人夫からなんから書き上げたぎ。

 その前に三郎吉ヱ門は我身のでかい私財を売って、この工事に使うてしもたぎと。そやれども、まだまだ足らんぎ。そしたら在所に相談役の親父様が十人居るが、その人らちが、間違いないこれだけの私財を使いましたちゅう印判を押してくれりゃよかったけれど、その人らちゃ押せえなんだき、恐してばれたとしたら、我れぁとんだめに合わんならんもんで。

 そしたら肝煎り三郎吉ヱ門な、恐ろしがって印判を押してくれるもんな居らなんだばっかりに、書いたもんを全部燃やいてしもて、家族ぐるみ夜逃ぎしてしもたぎ。

 春木のためになった人やったわいね。

(参考)

春木の三郎右衛門

                         (鹿島郡誌より)

 今よりおよそ二百年前の人、春木村の肝煎りであった。公共の福利のためを念じ、地方開発に一身の利害を顧みず、ついに不慮の災禍を招いた人だという。人々の伝えによれば、末広野の地は元は荒地で不毛の地であったのを、三郎右衛門の開墾によって美田となり、また潅漑のために山谷をせき止めて三箇の大池を築造し、拾数町の河川を造ってこの水を引き、なお水量を豊富にさせるために、花見月から四箇所に随道を掘って谷川の水を集めることで、今日の豊な水田地帯を造りあげた人だという。また数多くの道路を修理したり新設するなどして交通の便をはかったことなど三郎右衛門の恩恵ははかり知れない。これら公共的な大事業のために自分の全財産をなげだす程であったので、郷民の信望を一身に集め、その徳望甚だ高かったのであるが、晩年、村の貢租の平均免を低くするためにいくらかのかくし田をしたことが検地の際に露見し、このため「所払」の刑を受け、下口追放となり、上野国に遁れたというも、その末路が明確でない。知るべき文献もないが郷民今も伝えてその徳を称えている。