319.鵜とり部の宿

良川    鵜家  静枝

  毎年十二月十三日に、気多大社の鵜祭りに使う鵜様の宿をいつのころからか続けているので、私の家は鵜家という姓になっとるがです。 その日には鵜様を背中に担いで、七尾の鵜の浦から三人の鵜捕部がやってきて、たいてい夜入ってきます。玄関へ入るときに普通なら「今晩わ」と言うもんですが、この方々は「鵜捕部」(ウットルべー)と言って入ってきます。
  鵜様の食べるものなどは十一月に入ると用意にかかります。
  鵜様は一羽で、餌を与えるときは、昔は抱いて口へ魚を一つづついれてやりましたが、今は担いできた籠の口を開いて、餌をやっています。
  昔は鵜様を床の間に置きましたが、今は家の中の庭に置きます。
  ある一時期、担荷棒につって庭に置いたこともあります。餌は生きている「フナで、千路の潟から上がったものを買ってきます。
  昔は、いつ鵜様がおいでるかわからなかったものですから、十二月十五日を過ぎると、その年はこられないものとして、餌やその他準備したものを始末しました。おいでにならなかったことは、最近では戦争末期から終戦の頃に一度か二度ありました。
  七尾の鵜の浦では、二十一軒の人たちが七年に一度、鵜捕部に出るとのことです。小西さんという方が鵜を捕る専属になっています。
  鵜宿の始まりは、昔この辺に家があまりないころに、夜さり灯がついていたので、宿を頼まれたのが始まりとか聞いています。
  鵜捕部のご馳走はあまりしなくてもよいが、鵜様の食べる鮒だけはたくさん用意しておけと昔から言われております。
  私の家に死人があったときのこと、鵜捕部の宿を他の家にしてもらったところが、鵜祭りが順調に行かず、神主様が鵜捕部に「道中に何か変わったことがなかったか」と聞かれ、鵜家の家の人の死去で、他の家に一夜泊まったと言ったところ、死人があっても、貧乏しとってもどんなことがあっても、鵜様の宿はしなければならんぎぞと言われてきました。
  鵜捕部の方には、その方たちがこられた時だけ使うふとんを用意して休んでもらっています。
  ご馳走は、海の物と山の物と、畑の物で作るぎぞ、と言われております。酒を飲んで声が大きくなったりすると「鵜様が気をつかってや」ちゅうて叱られたもんです。
  ある時、鵜様が死なれて、それを埋めた鵜塚も良川にあります。それから、良川へくるまでの道中で、鵜様の休んでの石がきまっとると聞いています。

「類話」

鵜とり部の宿

良川    鵜家  良平

  うちの本家やけど昔はオーエというたが、明治になって鵜家とつけたと聞いている。本家の先代の爺さんが言うたのは、鵜とり部が気多大社まで行くのに二宮へんまできて、西側に明かりが見えたのが本家のオーエだけやったげと、その明かりを頼って泊まった。鵜とり部が本家に泊まった始まりで、それから毎年本家に泊まるようになったのやと。
  鵜の色によって今年は雨が多いとか、晴れるとか言うわね。鵜の浦で鵜を捕って籠にいれてやってくる。第一日は七尾に泊まって、次の日、本家に泊まるぎゃね。昔から十二月十三日の晩泊まるがで「ウットルべー、ウットルべー」と言うて鵜を担いでやってくる。その時分は雪が降るしね、鵜が泊まるもんやさかい、今でも鹿島路へ行って鮒やドジョウを買ってきて餌をやっている。
  鵜を捕まえるのが、鵜の浦の小西という家やけど、捕り方は祖先からの秘伝で誰にも教えないし見せてくれん。どうして捕るのか不思議や。担いでくる人も決まっているので、順番で七年に一回あたるそうや。三人一組でやってくる。
  鵜も生きもんやさかい、道中で鵜が死ぬことがあるようで、西馬場に「鵜の塚」というのがある。あれは、鵜が死んだのを葬ったがやという。そういう死ぬときもあるもんで、鵜は二羽捕まえる。補充用に一羽捕っているので、万一のときすぐもってくるがになっとる。
 鵜が泊まる宿やもんで鵜家にしたのだという。