312.大槻

  中世の戦国期には「大月村」とも書かれているが(天文十七年気多社文書)、同二十二年の畠山氏の内紛による遊佐・温井氏の対決として大槻合戦のあったところで、当時は西往来・奥能登内浦街道、眉丈山麓から外浦街道への交通の要所であった。そういうことからも二宮川左岸の丘陵地には土塁跡が見られ、大槻(砦)があったことから「大槻」の地名が付いたという説と、往古のころの船着場であった、多くの船が着けられたことから「おお着き」津とつけられたという説もある。

大槻の地名

大槻    豊蔵  茂

  確かなもんがわからんが、この大槻へんが、田鶴浜の方から邑知潟へ続いた沼地帯で、ここに船着場があって、多くの船が着けられたことから大着きの地名が着くたときいている。それがどうして大槻になったかはわからない。八幡様の入り口あたりが船着場だったという。
  昭和二十七年七月の豪雨のとき、新宅の裏山が崖くずれにあったがその泥の中に貝殻が層のようになっていた。旧県道のふちやが、この辺が海であって邑知潟へ続いていたことがこれからも言えると思う。また、この旧田鶴浜線の山手の方で、井戸を掘るとやっぱり海の砂や貝殻が出てくる。こういうことからも「おおつき」は船着場からという説も本当かもしれない。

大槻の地名

大槻    豊蔵  茂・豊蔵  行雄

  大槻というのは、たくさん「トリデ」がつくられたというところから、「大槻」となったのではないかとも聞いている。
  田中一雄さんの後の地蔵さんのあるところの山にトリデがあったという。子供のときだが兵隊の演習があったが、その時でも、将校連中がそこへ上がって、何十人もして作戦を練っているのを見た。トリデというイメージがある。
  戦国期の大槻合戦のころ、ここに大きなトリデがあったと想像される。
  今でもトリデと呼んでいるところがある。田鶴浜線のところに水門があるが、その辺をトリデといっている。旧道でちょつと東寄りに小高い山があるが、昔ここにトリデがあったと伝えられている。
 また、この辺の山にはトリデ(塁)がよく掘ってある。謙信が七尾城攻略のとき、畠山内乱の大槻合戦のときの砦でなかろうか。

大槻の地名

大槻    山崎  幸子

  ここに大槻伝蔵が住んどったちゅうことを聞いとるが、それから「大槻」をとって地名にしたというが、どうやらわからん話やけどね。この人は加賀騒動のときの立役者で、立派な人やったげ。赤坂さんとこの瓦場のところに塚があった。二十年程前に壊したが何んも出なんだと。そやけど、この塚にいたずらしたら、かたわの子ができるとか、バチがあたるとか言うたけどなくなってしまった。塚には仏様みたいなかっこうの小さい石が置いてあった。
  うちの婆ちやんな明治五年生まれやったが、その婆ちやんから聞いた。

(類語)

大槻    豊蔵  行雄