309.新庄

  平安中期以降、皇族や藤原氏一門、そして寺社など私領化(荘園)が進んで、律令制度が崩壊し、郷、院、荘、保、村などいろいろな呼び名の村落制ができた。平安末期には「一青荘」ができ、一青〜三階あたりの村々が含まれていた。その頃、荘園拡大のため益々開拓が行われ、鎌倉期には「一青新荘」として今羽坂〜廿九日あたりの村々がその荘下にあった。室町期に「荘」が「庄」に書替えられたのであるが、「新庄」の地名は「一青新荘」の一つの村として、いわばその頃、新開拓地として付けられた村名であろう。
  ちなみに、鎌倉期にト部刑部を中心に、京都石清水八幡社の勧請によって鎮守八幡社が造立されていることからみても、おそらく地名は鎌倉期以降であると思われる。