解説

藤島秀隆

1、地勢・町名由来・調査方法

2、語り始め・語り収め句及び伝承状況

3、石川県の昔話調査及び加賀・能登の特徴

4、鳥屋町の昔話・伝説の内容と特徴


地勢・町名由来・調査方法

 <地勢>
当該地石川県鹿島郡鳥屋町は、「鳥屋町町勢要覧」(資料編)等によると、能登半島の基部、邑知地溝帯の中ほどから少し北寄りに位置し、七尾市、鹿島町、鹿西町、田鶴浜町、羽咋郡志賀町に隣接している。
鳥屋町西方の郡境を縦走して連互する眉丈山系(最高海抜225メートル)は、その北端からしだいに丘陵にかわり、平地を隔てて、半島鳳至山系に連なっている。
町の中心部の平地は、鹿島町石動山系を源流とする二宮川と、長曽川が扇状に分かれ西側眉丈山麓の一青より深沢を結ぶ線が流れの分水界を形成している。

 <町名由来>
明治22年(1889)4月、町村制の実施に基づき、川田・大槻・十九日・新庄・春木・羽坂・今羽坂・末坂・一青・黒氏・良川の11か村が合併し、鳥屋村が成立した。
村の中心部に鎮座する鳥屋比古神社(別称、六所明神)は延喜式内の古社であり、鳥屋比古神を主神として、相殿に大己貴命ほか六神を合祀する。この神社の社名をとって鳥屋の地名が発祥したと伝えられている。
その後、昭和14年(1939)町制を施行、鳥屋町となり、昭和29年3月旧相馬村の瀬戸、花見月両地区を合併し、現在に至っている。

 「鳥屋町史」(昭和30年11月刊)所収の鳥屋比古神社の「文化3年(1806)由来書上帳」によれば、往昔、鳥屋比古神は国土平定開発の祖神と仰がれた。即ち、鹿島路の湖水(邑知潟)に棲息する毒蛇が人々に害毒を及ぼしたので射殺して当地一帯を平定したと伝え、その射た矢が落ちた所を羽坂と称するようになったと言われている。
また、「石川県鹿島郡誌」(昭和3年12月刊)には、このとき蛇の屍を社地南端の丘陵(鳥屋塚)に埋めたものだと伝えている。
一方、安永6年(1777)の序を有する太田道兼の「能登名跡志」には「御神体は金の鶏の由(中略)、一宮御神輿所の口より御帰座の時、一宮神主上指の鏑矢一筋北の方へ放つ也」と記載されており、このような故事に起源を有する神事が、現在も気多神社平国祭(おいで祭)の3月22日に鳥居前で行われている。

 <人口動態等>
さて、鳥屋町の世帯数・人口の推移を見ると、昭和30年の人口数は7,320人、世帯数1,345人であった。
しかるに、平成6年7月末日現在、人口総数6、019人(男2,874人・女3,145人)、世帯数は1,538世帯であり、世帯数は増えているが、逆に1,300人余り人口減となっている。なお、町の総面積は2,700へクタールである。
現今、町の産業は繊維産業(合成繊・維織物としては世界有数の産地)及び電気産業を中心に発展を遂げ、地酒(銘酒)の産地としても著名である。

 <調査方法>
平成6年7月15日より同年11月12日までの四か月にわたり、第一次、第二次、第三次(補足)調査を実施した。七名の調査編集委員が昔話・伝説・世間話等の調査にあたり、452話を採録することができた。
このうち、本書には、第一部動物話26話、第二部本格昔話43話、第三部笑い話64話、第四部伝説・世間話157話、合計290話を収録し、更に多数の類語を収蔵している。
この調査の成果はひとえに鳥屋町教育委員会並びに鳥屋町文化財保護審議会をはじめ、町民各位の理解と熱心な協力のたまものであり、衷心から厚く御礼申しあげる。

 調査採集を実施するにあたって、鳥屋町教育委員会社会教育課から文書及び電話等によって、各地区の区長・老人会長に協力を依頼し、併せて各地区協カ員の協力を得て、伝承者に公民館・集会所・自宅に集まっていただき、カセットテープに収録した。収録も原則として地区ごとに調査員が分担し、話者の語りを忠実に翻字することに努めた。
なにぶん、四か月という極めて短期間の採集調査であり、きめの細かい調査と収録はできなかったため、不十分な面が少なからずあることは否めない事実である。
しかし、石川県内における昔話・伝説集の刊行全盛期である昭和四十年代・五十年代の調査報告(後述)と比べても、何ら遜色がないと自負している。
その上、中能登地方の空白地帯を埋めたことにより、本書の学問的価値は高いと評価しても過言ではない。

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語り始め・語り収め句及び伝承状況

 <昔話の呼称>
昔話のことをどのように呼称したのか、はっきりしない語り手、明確に語る伝承者などさまざまである。
おおよそのところ、鳥屋町内では、「むかし」、「むかしばなし」と呼ばれている。
子供や孫が「昔話ゆうて」とか「おもしろい話してくれ」など昔話をせがむと、親や祖父母は「昔むかしゆうてやるぞ」あるいは「これから昔話してやるぞ、目をつぶって聞けよ」(末坂)・「おもしろい話してやろうか」などが語られている。

 <語り始めの句>
鳥屋町内における昔話の発端句としての基本的形式は、「むかしむかし(爺と婆)がおったと」、「むかしーーがおったと」、「むかしあるところにーーがおったと」、「むかしーーおったといや」、「とんと昔あったといや」である。

 そのほか、「むかしむかしーーがおったげ」、「むかしあるところに  があったそうや」、「むかしあるところにーーがすんどったと」、「むかしあるところにーーがおってのお」、「むかしーーがおったといね」、「むかしあるところにーーがおったがや」、「とんとむかしあったといの」など、微妙な違いはあるものの「むかしむかし」あるいは「むかし」で語り始められる言葉の語尾は、「と」・「ね」・「や」がほとんどである。

 <語り収めの句> 語り始めの句に対する結末句が「語り収めの句」で、次のようにわずか六種類のみ採集することができた
(A) 「これでへんけんぼったりこ、なめてみたらからかった」
(B) 「これでけんけんぼっとくそ」
(C) 「それきりぼったりかんなます」
(D) 「これでおしまい、けんけんぼっとくそ」
(E) 「けんけんぶったり」
(F) 「こんでおしまい」

 一般的に言うと昔話の基本的な特徴は、語り方に一定の形式(スタイル)がある。すなわち、語り始めと語り収めに形式定型句が伴うのである。
(A)・(B)・(D)の「けんけんーー」(へんけんーー)は本来、(E)の「けんけんぶったり」が変化したものと考えられる。「鹿島町」の語り始めと語り収めの文句の中に「とんと昔・・・・:けんけんぶったり」(芹川)・「昔々おったとい・・・・けんぶったり」(坪川・原山)・「昔々おったとい・・・・けんけんぼっとりかんなます、よんべのなますうまかった」(小田中)・「とんと昔・・・・けんけんぶったりかんなます、あいてくたらうまかった」(小竹)・「とんと昔・・・・それけんぶったり」(景勝講)などは、鳥屋町の文句と類似している。

 (A)形式のような語り収めの文句「なめてみたらからかった」は上に「なんばみそ」という文句が脱落したものと推測される。
例えば、能登地方の語り始めの句は「とんと昔」・「とんと昔あったとい」が基本的な形式であり、結末の語り収めの句は「なんばみそあえてくったらからかった」・「それきりぶっつりなんばみそ、なめてみたらからかった」などが標準的である。
輪島市・珠洲市・珠洲郡・鳳至郡・羽咋郡志賀町・富来町などからも報告されているので、能登地方全域がナンバミソ圏と言うことになる。

 「ナンバミソ」の「ナンバ」は方言で南蛮のことで、唐辛子粉を味噌にまぜて作ったもので、所により砂糖も入れる。田楽のことを言い、コン二ヤク、芋などに塗って食べると言われている。
結末句に「ナンバミソ」と語るのは、語るのも出来ないくらい口中がひりひりするほど幸いと言うことを表わし、転じて、口も疲れたのでこれで語りも終りと言うのを強調したものと考えられる。

 次に、(C)形式のような語り収めの文句は、「ガンナマス」・「カンナマス」圏と言える。古老の教示によると、「なます」は「かんなます」と呼ばれ、昔はめったに食べず、特に正月・法事・祭りの時に食べたという。

 <相槌>
相槌の言葉は、大体「ふん、ふん」・「ほや、ほや」・「うん、うん」・「そうやねえ」・「ほんとかいねえ」などが採集された程度で、どの言葉が代表的な相槌なのか断定は困難である。更に相槌を兼ねた催促の言葉として、「それから」・「それからどうした」などが語られている。

 <伝承状況・経路・時間・場所>
一般に両親は仕事が多忙で、子供(孫)の世話は祖父母という場合が多い。かつて子供の時に誰から聞いたかと言えば、実家の祖父母から寝物語として寝床で聞いたというのが最も多かった。次に、採集した事例を左に列挙してみよう。(順不同)

@夜なべの仕事(ダンゴの粉挽きや藁仕事)の時に母親や父親から聞いた。
A実家の母親がムシロを織りながら語ってくれた。
B村の年寄りから聞いた。
C旅の人が一夜の宿借りに来たとき聞いた。
D近くの寺で説教憎から聞いた。
E祖父の膝の間に入って頭をなでてもらいながら、祖母から聞いた。
F囲炉裏のそばで祖母や父母から聞いた。などさまざまである。

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石川県の昔話調査及び加賀・能登の特徴

<石川県の昔話調査>
昔話の学術的採集調査と研究は、石川県内に研究者が極めて少なく、更に大学の研究会組織もないために、全国的に見てやや遅れ、空白地帯もあちこちにあって、いまだ集大成の域に達していない。今後、早急に空白地帯の採集調査に着手すべきであろう。

 まず、加賀地方の採集は昭和初期にはじまり、これまでの主な資料集刊行を挙げると、山下久男氏「加賀昔話集」(全国昔話資料集成19、昭和50年岩崎美術社刊)は、昭和10年刊の「加賀江沼郡昔話集」の増補版で本格昔話46話、動物昔話50話、笑話58話など合計160話を収録。中でも「三人姉妹」(サルサワ)「舌切雀」「挑太郎異談」などが光彩を放っている。

次いで、小倉学氏「白山麓昔話集」(全国昔話資料集成4、昭和49年岩崎美術社刊)は、昭和38年刊の旧版「白山山麓白峰の民話」の増補版で133話を収めている。特筆すべきは、戦後の石川県内における最もすぐれた語り手であった山下鉱次郎翁が語り伝えた72話が収められていることである。

続いて、加能昔話研究会編「加賀の昔話「(昭和54年・日本の昔話26、日本放送出版協会刊)には「時鳥兄弟」「肉附面」「子育て幽霊」など合計122話が収録されている。

松本孝三他者「南加賀の昔話」(昔話研究資料叢書14、昭和54年三弥井書店刊)は、動物昔話10話、完形昔話61語、因縁・化け物語8話、笑話21語、形式談3語、伝説11語、世間話15話など合計129話が収められている。

立命館大学説話文学研究会編「白山麓・手取川流域昔話集」(昭和55年刊)には動物昔話21語、完形昔話91語、因縁・化物語9話、笑話37話、伝説・世間話24話、形式談5話など合計187話が収録されている。

京都女子大学説話文学研究会編「小松市の昔話」(昭和56年小松市教育委員会刊)は、むかし語り55話、笑話93語、動物昔話26話、伝説・世間話30話、合計204話を収めている。

藤島秀隆監修「金沢の昔話と伝説」(昭和56年金沢市教育委員会刊)には、動物昔話33話、本格昔話82話、笑話64話、世間話27話、伝説76話の合わせて282話が収録されている。
厚い分布を有する話型として、動物昔話では時鳥と兄弟・テテッポッポ(山鳩不孝)、本格昔話では蛇聾入(水乞型と菖蒲湯の由来)・鳥呑爺・舌切り雀・お銀小金・食わず女房・子育て幽霊がある。
次に笑話では愚か者の「ダラ聾さん」@蟹のふんどし、A馬の尻に帳面掛け、Bたくあん風呂、C団子聟こなどが圧倒的に多く伝承されており、また、寺院の説教話として代表的なのが、吉崎の嫁おどし (肉附面)である。
藤島秀隆他編「金沢の口頭伝承」(補遺編、昭和59年金沢市教育委員会刊)には昔話・伝説など49話が収録されている。

 その一方、能登地方の採集は、昭和40年代後半に入ってやっと活発化し、国学院大学民俗文学研究会編刊「奥能登地方昔話集」(伝承文芸第8号 昭和46年)は、珠洲の「三右衛門話」「滝,坊話」など奥能登の特色ある昔話を中心に101話を収録。
石川県立郷土資料館・志賀町役場編刊「能登志賀町の昔話・伝説集」(昭和51年)は、世間話の範疇に入る名物男「庄九郎話」や「テテッポッポ」など258話が収められている。

大島応志・常光徹著「三右衛門話」(能登の昔話、昭和51機楓社刊)は、世間話の性格を強く有する「三右衛門話」、愚か村話と呼ばれる一連の話の範晴に入る「滝ノ坊話」など伝承地としての特色を遺憾なく発揮した話を中心に100話を収めている。
次いで、立命館大学説話文学研究会編「能登富来町昔話集」

 (昭和53年、羽咋郡富来町教育委員会刊)には、動物昔話15話、完形昔話72話、因縁・化物語9話、笑話70話、伝説・世間話23話など合計192話が収録されている。中でも、人を巧みに編ましながらその人を怒らせることのない、やや愚鈍に傾いたおどけ者であり、実在の人と伝える「干ノ浦又次」や「和尚と小僧」「閑所の屋|板葺き」などが特徴と言えよう。
輪島市教育研究所編刊「輪島の民話(第一〜I第三の三冊、昭和52〜55年)には、「サンニョモン話」「八百比丘尼」「蛇池」「長大ムジナ」「猿鬼伝説」 「竜神の池」など合口わせて277話が収められている。
このほか、稲田浩二・小沢俊夫編「日本昔話通観」第11巻(福井・石川・富山11昭和56年同朋合出版刊)、福田晃編、藤島秀隆他者「日本伝説大系」第6巻北陸編(昭和62年みずうみ書房刊)がある。いずれも学間的な価値が高い研究書である。

 <加賀地方と能登地方の昔話の特徴>
加賀地方で伝承されている
本格昔話としては「蛇聟入」(水乞い型・苧環型)「鳥呑み爺」「食わず女房」「子育て幽霊」「舌切雀」「継子話」「姥捨山」 「和尚と小僧」などがあり、
動物昔話では「時鳥と兄弟」「山鳩不孝」「雀孝行」「雨蛙不孝」「古屋の漏り」など、伝説では「肉附面」「芋掘藤五郎」「八百比丘尼」「蓮如伝説」などがある。笑い話としては「ダラ聟さん」の失敗談がよく語られている。
加賀地方では本格昔話を中心にして動物昔話や笑い話が比較的多く、伝説においては浄土真宗、本願寺第八代宗主蓮如に関する伝説が広く流布している。
次に、能登地方では、動物昔話として「時鳥兄弟」「山鳩不孝」「雀孝行」など、本格昔話では「蛇聟入」(水乞型・苧環型)「舌切雀」「継子話」「閑所の屋根葺き」「食わず女房」「和尚と小僧」などがあり、笑い話では「引砂の三右衛門話」「富来の干ノ浦又次話」「志賀町の庄九郎話」などに代表される頓知者・おどけ者の伝承が特徴の一つである。
三人とも能登の人気者、愛すべき名物男で、奇人でもあった。実在の人物と伝えられ、一見ダラ(愚者)のようだが、実は頭のよい男だったといわれ、広く伝承されている。厳しい冬の風土のなかで忍従を余儀なくされた人々がうっとうしさを笑いで吹き飛ばそうとしたのであろう。
能登地方は世間話、笑い話が顕著であり、特に愚人談がいちじるしい。また、昔話の伝説化の最大と言えるのが能登地方の昔話を代表する「長太貌話」(正しくは「長太の貌退治」)であり、世間話としての要素も濃い。
伝説においては源議経に関する伝説が多数伝承されており、よく語られている。議経・弁慶の伝承地が外浦から内浦へかけて点在している。

石川県の昔話及び伝説で特筆すべきことは、真宗寺院における僧侶の説教話が顕著であり、伝承と伝播に大きな影響を及ぼしている。例えば能登地方の「引砂の三右衛門話」・「長太貌」、加賀地方の「肉附面」更に「蓮如伝説」などはその最たるものである。

 加賀地方、能登地方ともおおむね昔話を「むかし」と呼び、加賀地方の発端句(語り始めの句)は「昔」「昔々」「昔々あったとい」「昔々あったといや」などが多く、結末句(語り収めの句)は「そうろうべったりかいのくそ」「それでそうらいきりのかんどめなし」「そうらいけっちり」「そろばんがっちり」などさまざまだが、言わば候圏である。
能登地方の発端句は一般に「とんと昔」「とんと昔あったとい」が基本的形式であり、結末句は「それきりぶっつりなんばみそなめてみたら辛かった」形式が標準的である。そのほか「きっびりちょ」「それきりちょ」など種々あるが、主に「ナンバミソ」圏である。すぐれた語り手は南加賀・白峰村・奥能登などに比較的多いと言えよう。

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鳥屋町の昔話・伝説の内容と特徴

 採集した昔話及び伝説・世間話452話のうち、厚い分布を有する話型として、<動物昔話>では時鳥と兄弟・テテッポッポ・雀孝行、<本格昔話>では蛇婿入(立ち聞き型と水乞型)・舌切り雀・閑所の屋根ふき(鳥飲み爺)・米埋め糠埋め(継子話)・食わず女房・姥捨て山・嫁おどし面(肉附面)がある。

次に<笑い話>では愚か者の「ダラな兄んさ」(ダラ婿さん)@あいさつ失敗、A馬の尻に柱掛け、B糸引き合図、Cたくあん風呂、Dドッコイショ、E買い物の名忘れ、Fだらな兄さの灰集め、G三尺わらじ、Hドンなボンなどが圧倒的に多く伝承されている。

次に、「和尚と小僧」@飴は毒か、A和尚の焼き餅、Bおはぎは阿弥陀さま、C和尚も食べたくなった青い葉っぱ、D和尚が小僧を使うがでないなどがよく語られている。

 <伝説><世間話>で顕著なのは、地蔵伝説・弘法伝説・天狗伝説・狐にだまされた話・むじなやかわうそにだまされた話などである。一般に各地区の人々の生活・行事・信仰等と結び付いた話が多数伝承されており、集落における暮らしのにおいが感じられる。

 <動物昔話>のうち、時鳥と兄弟・テテッポッポは石川県下全域に分布している。「時鳥と兄弟」は小鳥前生談の中では代表的な昔話である。類話が全国に広く分布している。盲目の兄と弟がいた。弟は山芋をとってきて、兄にはよいところをあげた。兄は弟はもっとおいしいところを食べているのではと邪推して、弟を殺して腹を割く。すると腹の中は芋のくずばかりであった。後悔した兄は時鳥になって今でも鳴いている。話の中の時鳥の鳴き声は、「掘って煮て食わしょ」が多い。話の結末には人間の疑心暗鬼は決してよくないから、人を信じるものだ。また、兄弟は仲良くするものだ、と言う意味の教訓が必ず付け加えられている。

 「テテッポッポ」は山鳩の鳴き声であり、更に、何でも反対することを言うのである。言わば親不孝者の末路を語る小鳥の前生談である。かつては、親のいうことを聞かない子供を「テテッポッポになるぞ」(一青)といわれた。あんまり親のいうことを聞かないで反対ばかりしていると「テテッポッポになるぞ」(良川・大槻)といわれた。固いものになれ、親のいうことを聞け(瀬戸)とおどかされた。おおむね話の末尾に「子供というものは親が生きている間に、親の言うことを必ず聞いて親孝行するのだぞ」という意味の教訓が付加されて語られているのである。雨降りの日に川のほとりに埋めた親の墓が流されるのを心配して山鳩となり、話の中で「テテッポッポ親(母)恋し」という鳴き声が語られる。類語が全国に分布しており、テテッポッポのことを石川県内では「山鳩不孝」と呼ばれている。

 <本格昔話>のうち、「蛇婿入」(立ち聞き型)では菖蒲湯の由来を語る話が非常に多い。6月4日(一部では5日)の夜、菖蒲湯をたて入浴すると、腹に虫がたたない(わかない)。寝床の下に一日日清を敷いて寝ると病気にならない。鉢巻きすると風邪引かない、頭痛もしない。|菖蒲を箪笥の中に入れると虫除けになる。軒先に挿す。菖蒲湯に入ると蛇の子が下りるなどが昔話に関連して異口同音に語られている。菖蒲には呪力や魔除けの薬効があると信じられているようで、民間信仰は生きているのである。

 次に「嫁おどし肉附面」の伝承は、文明年間(十五世紀)蓮如上人が越前国吉崎御坊に在住のみぎり、ある村の信心深い嫁が信心嫌いの姑の迫害を排除して行き、後に姑も信者になったという。言わば蓮如参りが事件の発端・展開・結末を構成して、それが一貫して説かれているのである。
吉崎の嫁おどじ話は、大別すると二つの型がある。@浄土真宗本願寺派西念寺の縁起に基づく伝承、A浄土真宗大谷派願慶寺の縁起に依拠した伝承、がそれである。西念寺系の伝承は姑が嫁の吉崎参りの帰り道に待ち伏せして脅かす、また、願慶寺系の伝承は嫁が吉崎へ行く途中の道で脅かされるのである。殊に姑と嫁の対立を浮き彫りにして、嫁は善玉、姑は悪玉として語られている。信仰嫌いの姑が、信心の篤い嫁が毎日のように蓮如参りを行うのを憎み、立腹して、夜なべに臼で米を二升、三升、五升などとひかす作業を課する。この語りの筋書きが石川県内に分布している話と共通している。古崎の寺院縁起では夫あるいは子供のことが記述されているのに、民間の口承文芸ではその部分の語りはおおむね欠如している。

 さて、本語は誰がもたらしたのか、大別すると、@親から聞いた。A近所の年寄りから聞いた。B近所の寺で僧侶から聞いた。の吉崎へ行って、吉崎寺あるいは願慶寺の僧侶からそれぞれ所蔵されている肉附面の話を聞いた。の四種存するのである。とりわけ、僧侶の説教が伝承・伝播に大きな影響を与えている。また、一般に村の年寄りも重要な伝承者の役目を果たしている。

 次に八伝説・世間話Vのうち、「七尾のデカ山と人身御供伝説」は注目に値する。七尾市山王町にある大地主神社(通称は山王神社)で行われる5月14日の青柏祭には高さ十二メートルもある巨大な曳き山が三台も出て、デカ山とよばれている。その由来が猿神退治の伝説なのである。猿神退治の話は、人身御供をささげていた神が実は猿で、犬を送りこんで退治するという厄難克服の昔話であり、犬の名にちなんで「竹箆太郎」とも呼ばれる。七尾の伝承は昔話が伝説化したものであり、「犬援助型」である。富山・石川両県では犬の名前は「越後のしけん(しゅけん)」である。三匹の猿にちなみ三台の山車を山王社に奉納するという伝承はきわめてユ二ークと言えよう。

 鳥屋町域は羽咋と七尾を結ぶ西往来に位置している。また、瀬戸や花見月を通って外浦の志賀町方面にも通じている。七尾市と鳥屋町の人々は日常の交流があるのに、七尾市内に伝承されている昔話や伝説がほとんど鳥屋町内へ伝播されていない。わずかに「七尾のデカ山と人身御供伝説」が川田・良川・一青・春木の各地区に伝承されてきたことは貫重な資料と言えるだろう。

 鳥屋町地方は浄土真宗・浄土宗・真言宗・曹洞宗・日蓮宗などの各宗派が相混淆するという地域である。高僧伝説として弘法大師以外、語られていないようだ。親鷺・蓮如・道元・日蓮等に関する高僧伝説はひっそりと影をひそめてしまっている。また、外捕方面に多い源平伝説が鳥屋町内にはほとんど伝承されていない。
笑い話は実に豊富であるが、珠洲の三右衛門、富来の千ノ浦又次、志賀の庄九郎兵衛のような笑い話の主人公、名物男の存在と伝承が鳥屋町になかったのはさびしいことである。その反面、本格昔話の採集は良い収穫を得ることが出来たと思っている。
伝説・世間話は種類が多く内容も豊富で面白く、面白躍如たるものがある。総じて語り手の表情は生き生きとしており、リズ、カルな動きと滑らかな語り口は、今後も多くの優れた昔話や伝説を産み出すものと確信している。
端的に言えば、鳥屋町は昔話・伝説の宝庫といっても過言ではない。短期間の調査にもかかわらず収穫は大であったと言えよう。各地区にうずもれた伝承者の発掘が今後の課題であり、町おこし及びふるさと再生の起爆剤となるに相違ない。昔話・伝説・方言は生きている。先人の文化的遺産を大事に継承し、更に子々孫々に語り伝えて行くことを切望してやまない。

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藤島秀隆プロフィール

昭和10年生まれ。東京都出身。国学院大学院日本文学専攻修士課程修了。
専門  中世説話文学、口承文芸(加賀藩時代における文芸の基礎的研究)
現在  金沢工業大学教授修学基礎教育課程主任。
著書  「御伽草子」・「続御伽草子」・「加賀・能登の伝説」・「金沢の昔話と伝説」・「金沢の口頭伝承」
補遺編「中世説話・物語の研究」ほか多数。

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